松吉100年物語
松吉100年物語
The 100years of MATSUYOSHI story
CHAPTER - 1
創業
夫婦の
ような
二人
松吉医科器械株式会社は、熱意あふれる二人の若者の出会いから生まれました。
その一人、吉田英雄は1891年(明治24年)10月25日、三重県鈴鹿市にて産声を上げました。
彼は高等小学校卒業後まもない1909年(明治42年)頃に上京し、翌年2月より、当時日本橋にあった有名な医科器械商である「山田六松商店」に入社しました。
もう一人の松井幹一は、大阪の武田長兵衛(現在の武田薬品工業の当主)の一門の生まれ。上京後、当時の医科器械商最大手である「いわしや岩本藤吉商店」に勤務していました。
同業者ということで、常日頃から交流があった二人。歳も近く、会社は違えども同期ということもあったのでしょうか。二人は意気投合し、「近い将来独立して共同経営しよう」。そう約束していました。
そして、1917年(大正6年)10月。一足早く独立をした吉田英雄が「吉田商店」を設立。
翌年5月には続いて独立した松井幹一と、約束どおり共同経営を始めました。会社名は、松井と吉田の名字から一文字ずつ取り、「松吉合名会社(資本金5,000円)」としました。
「二人はまるで夫婦のようだった」。
そう表現したのは、伊藤超短波株式会社の創業者にして、NHKの創立にも携わった伊藤賢治さんです。伊藤さんは松井や吉田とも交流があり、二人のことを近くで見ていた人物の一人でした。
「世に夫婦をベター・ハーフというが、松井、吉田の関係は、寧ろベター・ハーフだといえよう。松井の性格は、どちらかといえば、女性的で内面的であるのに反し、吉田は男性的で外面的である」
(「医療器業界興亡史」P40保険産業時報社 伊藤賢治著より)
また、同著には事業に対する松井の信念として、こんな記載もあります。「共同事業には疑心と自我心とは絶対に禁物である。そして事業には栄枯盛衰があって景気のよい時と、悪い時が交互に来る、然も悪い時が長いのである。その悪い時にお互に忍耐して水平路を持続すれば、やがて又上昇するものである。これを守ることこそ鬼に金棒という事になるのだ」この信念の元、創業後の社業は順調に発展していきました。
CHAPTER - 2
関東大震災
会社
存亡
の危機
1923年(大正12年)9月1日。
関東大震災が発生。順調な発展を見せていた松吉も罹災し、会社存亡の危機に追い込まれました。東京はがれきの山と化し、木造住宅の多かったことで広範囲に火災が発生。商売どころではない絶望的な状況でした。
ところが、そんな状況にも関わらず、松吉は、わずか二週間ほどでいち早く復興することができました。それは「人との縁」と、「人情」、そして「行動力」のおかげでした。
会社設立当時、都内の取引先は、老舗の卸問屋に占有されておりました。そのため、新参者であった松吉は、必然的に地方にお得意先を開拓していくしかありませんでした。
しかし、このことが震災後の復興に非常に有利に働いたのです。
大震災によって首都圏のお取引先様の多くは被災し、廃業や縮小を余儀なくされました。それにより首都圏をメインに商売をしていた老舗の卸問屋は、卸先を一気に失うこととなりました。
一方、松吉のお取引先様は地方にあったため震災の被害にあっておりませんでした。むしろ、大変ありがたいことに罹災した当社に同情が集まり、注文が殺到したのです。 ただ、注文が殺到しても商品がなければ卸すことができません。 二人の経営者はできる限りの金策に走り、それを懐に吉田英雄が大阪へ向かいました。
大阪に着いた吉田英雄がまず行なったことは、オートバイ(ハーレーダビッドソン製・サイドカー付)を購入することでした。当時はまだまだ交通網の発達していない時代。オートバイの機動力を活かし、できる限り多くの医科器械商を訪問するためでした。
無事に大量の医科器械・衛生材料を調達した吉田英雄は、製品をサイドカーに載せ、東京へと舞い戻りました。東京は震災による物資不足に陥っていたこともあり、注文は更に集まり、いち早く会社を復興させることができました。
CHAPTER - 3
世界大恐慌
大陸
進出
関東大震災後、社業は順調に推移しておりましたが、またしても試練が訪れます。1929年(昭和4年)10月24日。アメリカ発の世界大恐慌です。
まだまだ震災後の復興途中であったことや、1927年に発生した昭和金融恐慌により弱体化していた日本にもその波はすぐに訪れました。多くの会社が倒産し、街は失業者で溢れました。松吉もそのあおりで大打撃を被ります。
当時の日本は、満州(現在の中国東北部)に力を入れて進出をしており、職を探すために大陸に渡る人も多くいました。大恐慌の打撃を受けた松吉も、この苦境を打開するための販路として、国内だけではなく海外に目を向けました。
現在の韓国、北朝鮮、中国東北部に駐在員を派遣、駐屯させ、積極的に医療関連物資の輸出を行なうことで、この苦境を何とか乗り越えることができたのです。
この時期に松吉は、二度の社名変更を行なっています。
1934年(昭和9年)1月に株式組織を改め、「株式会社松吉商店(資本金500,000円)」となり、1944年(昭和19年)1月に商号を改め、現在の「松吉医科器械株式会社」となりました。
CHAPTER - 4
終戦・高度成長期
営業
体制
の礎
第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて東京は幾度もの空襲に襲われます。中でも、最も大規模であったのは1945年(昭和20年)3月10日未明の大空襲でした。
東京は一面焼け野原となり、罹災者は100万人を超えました。
そんな中でも、松吉が業務を継続させられたことは僥倖というほかありませんでした。当時の本社建物が鉄筋コンクリート建であったことで、売掛台帳、仕入台帳などの帳簿類が焼失を免れたのです。
同年8月15日、日本は終戦を迎えます。召集を受けて戦地に行っておりました多数の社員たちも会社へ戻ってくることができ、松吉は徐々に以前の活気を取り戻し始めました。戦後すぐに創業者の吉田英雄、松井幹一はそれぞれ第一線を退いて会長となり、吉田實、松井佳男が2代目の社長に就任しました。
終戦後の混乱期には、物資の入手が困難な状況ではありましたが、数多くの仕入先様からのご支援を頂いたことや、中野区野方に鋼製器具の自社生産工場を自ら創設したことにより、松吉は多くの医療器具を市場に供給可能でありました。
当時から既に、お取引先様は北は北海道から、南は九州まで(現在は沖縄県まで)全国に約500店程ありました(昭和26年会社経歴書より)。
「松吉営業マン」は多くの商品サンプルを鞄に入れ、夜行列車に乗り、一年のうちほとんどをそれぞれの担当地区に出張営業し、信頼と安心を獲得してまいりました。
また1950年(昭和25年)8月に設置されました警察予備隊(現在の陸上自衛隊)との仕事にもいち早く取り組むなど、現在の営業体制の礎を築きました。
1955年(昭和30年)から1973年(昭和48年)まで、経済成長率が年平均10%を超えていたいわゆる「高度経済成長期」には松吉も順調に発展。
1967年(昭和42年)4月には本社裏に鉄筋コンクリート4階建ての社屋を新築。
1972年(昭和47年)12月には札幌連絡所(現在の札幌オフィス)を開設いたしました。
また、1972年(昭和47年)には、得意先(ディーラー)であった熊本県の八尾日進堂(現:株式会社八尾ムトウ)を買収し、子会社化。
それをきっかけに熊本県にて、病院への直販も始めることとなりました。何とも幸運だったのは、買収直後のタイミングで旧熊本空港の跡地に日赤病院が移転することとなり、その移転新築時の準備に松吉が大きく関わることができたことでした。
そこで大きなノウハウを得た松吉は、更なる発展のため首都圏の一都三県の国公立病院への直販事業も開始致しました。
しかしそんな中、1973年(昭和48年)第4次中東戦争をきっかけとした第1次オイルショックが起こり、非常に厳しい状況となりました。
それでも、半世紀以上の間培ってきたお客様との信頼関係により、この厳しい状況を打破することができました。
1976年(昭和51年)5月には、ドラッグストアや薬局への医療用品や衛生用品の卸売事業の営業拠点として、八王子営業所も開設。
1979年(昭和54年)にはイラン革命をきっかけに第2次オイルショックが起こりましたが、これも乗り越え、1982年(昭和57年)9月には日本橋本町の旧本社社屋を取り壊し、新本社ビル(9階建て)を竣工させました。
CHAPTER - 5
そして現在、そして未来
次の
100年へ
向けて
1987年(昭和62年)に、3代目として吉田路樹(現在は名誉会長)が代表取締役社長に就任。同時に子会社化していた八尾日進堂が独立。松井家が八尾日進堂を、吉田家が松吉を引き継ぎ、それぞれが 単独経営となりました。
時代は昭和から平成に改元され、21世紀が絵空事のような遠い未来ではなく、すぐ先の現実という認識になっていった頃。
松吉も21世紀に向けて医療機器専門商社の確固たる地位の確立をめざし、1992年(平成4年)に現在の「松吉総合カタログシリーズ」の原型となる「松吉総合カタログvol.100」を発刊。
以来、「医療」と「健康」をキーワードに営業展開を図ってまいりました。2000年(平成12年)からは「第2の創業」と位置づけ、社内改革に着手。事業ドメインの見直しを行ない、ドラッグストアや薬局への医療用品や衛生用品の卸売事業と、一都三県の国公立病院への直販事業を廃止し、カタログを軸とした卸売事業へ集約致しました。
また同時に、電話対応専任のコールセンターを設立。
一日千件以上かかってくる取引先からの電話に効率よく対応するため、CTIツールを導入し、業務改革を行ないました。
2002年(平成14年)7月には医療機器に関わる安全対策の見直し(改正薬事法施行)を視野に入れ、 栃木県佐野市に「佐野物流センター」を開設しました。
流通、システム網を整備するとともに、営業体制の更なる強化策として2007年(平成19年)12月には、本社を日本橋から医療機器発祥の地である文京区湯島へと移転します。
2008年(平成20年)には4代目社長として吉田英樹が就任。
2010年(平成22年)からは、それまでは不定期だった「総合カタログ」の毎年発刊がスタートし、取扱商品ラインナップもさらに充実し、より現場のニーズに応えた内容となっていきました。
2012年(平成24年)からは、より地域に密着した営業活動を展開するため、順次、全国に営業所を開設し、ネットワークを構築していきました。2014年(平成26年)には、長年に渡る海上自衛隊の医療態勢の向上への貢献、特に艦艇及び航空機の特殊性に対応した医療機器の導入による洋上医療態勢の維持向上への貢献に対し、海上自衛隊補給本部より、感謝状を贈呈されました。
そして、2017年には創立から100年を迎えました。
幾度もの危機に襲われながらも、松吉はその時々に合った営業方法、先を読んだ営業戦略で乗り越えてまいりました。もちろん、これだけの長い時間を越えられたのは、自分たちの力だけでは決してありません。取引先の皆様の支えがなければ、ここには辿り着けなかったでしょう。
これからの100年も医療関連事業という生活に密着した専門商社として、益々皆様に愛される企業であり続けるために、日々社員一丸となって新たな挑戦を続けております。